ここまで肩の力の抜けた、いい意味でリラックスした文章、というものに初めて出会った。美しい文章を書くということで、何かの本に紹介されていたので、今回読んでみた。大寺さんを主人公にした作品には、特にそれを感じる。庶民的で、ちょっと生活臭がして、それでいて「死」を扱った作品も多く、死を日常で捉え、日常の中の一こまとして描かれている。それが、逆に強く印象に残って、記憶に残るいい作品群になっている。もっと早く出会いたかった作家である。
小さくも安定した日常がとても心地よく描かれた短編集です。
この「珈琲挽き」の世界は、身近な友人や庭に来る小鳥、池の金魚など、どれも小さく地味でつつましやかです。そのありふれた小世界に棲む生き物のありようが、穏やかな、しかし確かな眼差しでそっとすくいとられています。
「二、三年前の秋だつたと思ふが、一度、何となくヒマラヤ杉に梯子を掛けて、箱をはずしてみたことがある。中で、ことん、と音がするから、何だらうと横にして振つたら、穴から團栗が一つ轉がり落ちたから驚いた。誰が入れたのかしらん?四十雀には團栗は大き過ぎて咥へられないから、案外悪戯者の鵯でも咥へて来て入れたのではないかと思ふ。何だか、思ひ掛けない秋の贈り物を貰つたやうな気がして、愉快だつたのを思ひ出す。」(「巣箱」)
静かで、地味で、つつましい暮らしから、作者は、さりげなくも確かなつながりを見いだします。さらさらと陽がさし、時間がゆっくりと移ろううちに何ページも読み進んで、満ち足りた心地になる1冊です。
北村薫さんの作品をはじめて読んだときの、あの新鮮な驚きと読後の清冽な印象が蘇った。なんといっても名偵役ニシ・アズマ(この古風なカタカナ表記がとてもいい感じ)の利発で可憐で、どこか「お茶目」(死語)なキャラクターが魅力。「その女性──小柄で愛敬のある顔をした若い女性、賢明なる読者は、既にお判りかもしれぬ、他ならぬニシ・アズマである」。この登場の仕方、というか燻し銀のようなユーモア漂う小沼丹の筆運びがいい。12の短編それぞれに違った味わいがあってそのどれもがすてがたいものなのだけれども、個人的には「未完成」に終わった青年との恋の回想シーンが出てくる「十二号」と、ニシ・アズマの家族が登場する「スクェア・ダンス」が印象的。──『黒いハンカチ』が刊行された昭和33年は松本清張の『黒い画集』が「週刊朝日」に連載されはじめた年でもある。私はたまたま偶然この二冊の本を同時に読んだ。いかにも対照的な両作品はあいまってあの時代の雰囲気を伝えていたように思った(といっても、あの時代のことを実感として知っているわけではないのですが)。
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