1967年に茨城県で発生した強盗殺人事件(布川事件)の容疑者として逮捕された著者は、「共犯」とされた桜井昌司氏とともに、犯行を「自供」し、起訴された。一審では両氏ともに犯行を否認するが、ともに無期懲役刑を言い渡された。控訴審、上告審ともに両氏の無罪の訴えは退けられ、1978年に有罪が確定した。1996年に仮釈放された後、第二次再審請求において検察が開示した証拠のうち、録音テープの改ざんなどを根拠に再審が開始され、ようやく無罪が確定した。杉山、桜井両氏は、四十数年間にわたる犯人の汚名から解放されたが、失ったものはあまりにも大きい。本書に見るように、冤罪はいとも簡単に生み出され、「犯人」とされた人から全てを奪い去る。
布川事件に限らず、足利事件、東電OL殺人事件、志布志事件などおびただしい数の事件が冤罪と確定している。本事件における警察・検察による「犯人」デッチ上げの手口は古典的といってもよいものである。シナリオありきの捜査、それに基づく自白強要または誘導、「自白」に合わせた証拠のデッチ上げなど、多くの冤罪事件で使われてきた手法である。現在も多くの刑事事件で、相変わらずこの手法が使われているに違いない。日本の刑事訴訟の有罪率99.9%の陰に、いったいどれだけ多くの冤罪事件があるのか、空恐ろしくなる。裁判所も、検察の言い分を丸呑みする裁判官が多く、冤罪作りの共犯者といわれても仕方がない。
本書を読んでの救いは、少年時代から地域で「ワル」として鳴らしてきた著者の、野放図で明るく、楽天的な性格である。獄中での積極的な冤罪訴え活動や、受刑者たち(そのうちの何人かは冤罪を訴えて再審請求中)との交流にも、楽天的な著者の性格が反映され、過酷な獄中生活を耐え抜いた原動力にもなったと思われる。
冤罪は、警察・検察による杜撰な捜査によるものであり、国家による犯罪そのものである。しかも、冤罪で警察・検察が犯罪捏造の罪に問われることはなく、それどころか、国民の税金を使って、被害者に国家賠償として金銭が支払われる。一向になくならない冤罪こそが「官僚主権国家」日本の象徴ともいえる。このような冤罪を無くすには、取り調べ(任意取調べ段階からの)の完全可視化、全証拠の完全開示の二点が不可欠であることを、本書を読んで確信した。
昭和42年の夏、茨城県の布川で小金を貯めていた独身で62歳の建具職人が殺されるが、警察は状況から二人組みの犯行と看做し、周辺の不良グループを当たったところ、桜井と杉山が捜査線上に浮かぶ。
やがて逮捕となり、裁判の結果、無期懲役となるが、不幸中の幸いは死刑にならなかった事だ。被害者が独身ではなく、夫婦で殺されていたら、死刑になった可能性がある。そして仮に死刑が執行されていたら、この冤罪事件は大きな問題となっていたかも知れない。
ネットで本書を知り、読みたいなと思っていたが、94年の刊行で増補版が02年なので、心当たりの本屋を覗いてもあった試しはなく、いよいよネット販売の大手、アマゾンに頼るしかなかった。日を待たず、本書が届いた。ネットでの書籍購入は、このように呆気なかったが、本当に便利なものだと思う。古本屋巡りをしていたら、いったい何時になっていた事だろうか。
それはさておき、本書の内容だ。
タイトルにもあるように、本書には桜井と杉山の詩が掲載されているが、個人的には桜井の詩が秀逸だ。事件の詳細を知るには少し不満があるが、読めてよかった。