いかにもセットふうの画面にはじめは違和感がありましたが、村人たちの盟約のころから、浄瑠璃風の仕立てが効いてきた。とくにおりんを背負って楢山にいくところは、近松ものの道行を思わせて実によかった。あとで、今村昌平作品をみましたが、共同体の掟を全面に出してきた見方よりも、こちらのほうが胸にすつと入ったようでした。しかし、最後の中央線「姨捨」駅の実写は蛇足というよりも変だった。
歌舞伎の世界を映画にした。歌舞伎手法を映画に取り入れたというよりも、むしろ歌舞伎の世界を映画にしたと言えるのではないでしょうか。その舞台
美術は一見の価値あり。もう今の日本ではこんなに舞台
美術に金がかけられないのではないでしょうか?ただ個人的には、心情に感情移入をしたいところなどは歌舞伎音楽を無にして頂いた方が、メリハリがつくような気がいたします。前編に歌舞伎音楽が流れ、ややそれが子守唄のように、、、個人的には、、それが台詞とあたってしまい、聞き取りづらかったり、、眠くなってしまうのです。しかし、最後には良質な歌舞伎を見た後のような、「良かった。素晴らしかった。」というような満足感があるので、そんな意味でも歌舞伎と映画の素晴らしい融合です。最後の方のシーン、母を捨てに行き、帰り道でもう一組の爺捨てに出会い、、、雪が降って、、、母の元に戻り、、声をかける。そして最後の、、、時を経た「うばすて」駅、、、。個人的にはその辺りが、見所であり、人の残酷さ、美しい心、無常、、を強く印象付けられました。
今となっては、ひもじいという語感がもう伝わらなくなっているかもしれない。かく言う私も戦後世代で、戦前、戦中、終戦直後を経験していないので、ひもじさの実体験があるわけではない。しかしそういう、ひもじい時代の日本が確実にあったのだ。例えば、宮沢賢治の物語を読むとそこにはある。柳田国男の遠野物語にもある。口減らし、間引き、なんと恐ろしいことだろう。誰が好き好んで身内の者を捨てて見殺しにするものか。そうせざるを得ない現実があったのだ。
おっかあを演じる田中絹代は70歳の役にしては艶めかしさがあるが、おっかあは毅然として一言も話さず、息子を突き返し即身成仏となる。一度心に決めたら動じない、日本のおっかあだ。一方、宮口精二演じる又やんは71歳にして駄々をこねる、日本の男として描かれ、おっかあとのコントラストも心に残る。
別れ際に、おにぎりひとつを除き、他のおにぎりと水筒を、おっかあは息子の辰平に渡そうとする。最期まで自分のことより息子を優先させる。これも日本のおっかあなんだよなあ。本当に泣けてくる。息子は下山の途中で雪が降り始めたので引き返す。おっかあの声を一言聞きたい。でも結局、如何ともしがたく、一目散に下山する。
これは浄瑠璃である。姥捨ての道行きは、琵琶を掻きならす浄瑠璃でなければ伝えられないと木下監督は考えたのだろう。全編を通じて胸を締め付けられ通しだ。
ラストシーンを除いてオールセット。相当な規模のセットで、時間や季節の移り変わりを丁寧に構成し、シーンの切り替えは歌舞伎形式を用いている。名作である。