まず言えることはこの本は今の日本が抱えている問題の核心をついているということです。
タイトル「戦争はどのように語られてきたか」これは実は「戦争はどのように語られてこなかったか」の裏返しになっていることが読み始めるとすぐにわかります。つまり、この本は日本にとって、冷戦の枠組みの中でアメリカの「核の傘」に入り、アジアで経済発展を続けて行こうとする時邪魔になる過去を隠すためにどのような方法が(意図的、無意識的に関らず)とられてきたか、の検証にもなっています。例えば火野葦兵についての対談では「兵隊センチメント」への指摘がなされました。それから上野千鶴子さんは70年代に流行した「自分史」の投稿の中に自己正当化的なものが多いと指摘します。他にも様々「過去を語らないため」の「書き換え」に用いられた技術(センチメント、自己正当化、客観性という名の傍観)が次々と洗われます。そして最後には日本人は歴史を十分に語ってこなかったから現在自分たちを捉えている問題の本当の姿がわからず、戸惑っている、ということが見えてきます。それが私がこの本を読んで気がついたことの概要です。しかし、私見ですが、90年代以降、冷戦構造が崩れ、アジア経済も勃興してゆく中で、日本はとうとう「歴史を語ること、あるいは受け入れること」を迫られているように思います。そうした中この本はとても大事な役割を果たしていくのではないでしょうか。中にはかなりきちんと戦争を語ってきた文学作品もあり「黒い雨」と「父と暮らせば」はこの本の中でそうした一例として出てきています。他にもこの本のよさはたくさんありますし、レビューを見ておもしろいと思った方はもちろん、違うんじゃないの? と思った方も是非この本を直接手に取って確かめてみてください。
最近では珍しい文学全集といっていい「コレクション戦争と文学」の別巻である。このシリーズには「朝鮮戦争」から「オキナワ 終わらぬ戦争」までの20巻に詩歌もまじえ日本の作品が多数収録されているが、以前同じ出版社が刊行した「昭和戦争文学全集」と異なり、日清日露戦争から第二次大戦以後の戦争、そして未来戦争のような領域のものまでも射程に入れている。
別巻には、「〈戦争と文学〉の一五〇年」として「序」を除けば8本の論文が並ぶが、時系列に沿った6本の後に、「エンターテインメント小説と戦争」「日本SFが描く戦争」があるのが目新しい。半世紀前の「昭和戦争文学全集」においては考えられぬ論文、そしてその内容である。本巻には「イマジネーションの戦争」という巻があり、独自な作品選択がなされている。
ふりかえれば戦後20年の時点でつくられた「昭和戦争文学全集」は何よりも、いわゆるアジア太平洋戦争に特化した作品選びがなされていた。それほどにあの戦争は当時の日本人一般にとって特別な重みがあった。
それから半世紀が過ぎ、アジア太平洋戦争の意味、位置は現在の日本人にとってかつてのようなものではなくなっている。そのことがこのコレクション、そして別巻における整理の仕方に如実にあらわれている。
その出版の方針にことさら疑問をだいているわけではない。だが、ある切実さが失われているのは否定しようがない。
私が生まれたのは戦後であり、このアンソロジーの企画者や編集委員、そして別巻の執筆者もほとんどがさらに若い戦後生まれであろう。
結局、1945年以降の日本における「戦後」とは、それ以前と比較したかぎりでの「平和」と引き換えに、戦争というものへの切実な感覚が希薄になってゆく過程といえる。
本書の第二部では、20巻のなかに長篇を収録できなかったかわりに156編の長篇作品を詳しく紹介している。行き届いた配慮で便利ともいえるが、そうした事典的しぐさ自体、切実さが希薄になった今の状態をあらわしているようにも感じられる。
ともあれ教えられることがあるとともに、なんとなく落ち着かない感じがする。