この前、「
ミケランジェロの
暗号」とか云うのを見たんですが、マルト・ケラーが主人公の老母役で出ていました。もう60代後半ですから当たり前ですが、ずいぶん老けましたね。老けても相変わらずキレイでしたが。
この映画が封切られた1977年は、まさにマルト・ケラーの年でした。この映画をはじめとして、「マラソンマン」、公開中止にはなりましたが「ブラック・サンデー」、翌年の初めには「ボビー・デアフィールド」と云うのもありました。スイスのご出身だそうですが、
ハリウッドでそのままスター女優になるのかと思っていたら、結局、ヨーロッパに根を下ろされたようです。出演作の選択からもうかがわれますが、堅実な方なんでしょうね。
1974年に制作されたこの映画は、映画創成期である20世紀初頭から、第一次世界大戦、戦間期、第二次世界大戦、そして現在(70年代初頭)に至る戦後を生きた、3代にわたるユダヤ系
フランス人女性(マルト・ケラー1人3役)の人生と、監督のルルーシュ自身がモデルになっていると思われる映画監督の、監督になるまでの破天荒な半生が交互に描かれる展開で、さらに終盤に至って二人が偶然出会い(飛行機の席が隣同士になります)、映画監督の次回作映画の構想として語られる、いかにもその時代のヨーロッパ人が夢想する絶望的な未来社会(
長塚京三らしき日本人も、なぜか出ています)に生きる二人の子孫にまで話が及ぶ、壮大なスケールの(といっても、それほど大掛かりな映画ではありませんが)、いかにも
フランス映画らしい愛の物語です。重い話ですが、映像にスピード感があって深刻にはならず、本人が本人の役で出演したジルベール・ベコーの歌の使い方の斬新さとも相まって、ルルーシュ映画としては初期の映像派から後年の物語作家への転換点に位置する、両者折衷の、なかなかユニークな映画でした。
上で、この映画が公開された1977年は「マルト・ケラーの年」だったと書きましたが、同時に「ルルーシュの年」でもありました。この映画と前後して、ドヌーヴ主演の「愛よもう一度」(1976年制作)も公開されています。1960年代に「男と女」、「白い恋人たち」で最先端の映像派として鮮烈に登場しながら、1970年代も後半に入るとやたらと歴史年代記ものを撮る物語作家になってしまったルルーシュという人は、1980年代の中国で、映像派として鮮烈に登場しながら、1990年代に入ると途端に通俗的な歴史年代記ものを撮る物語作家になってしまった陳凱歌、張芸謀、田壮壮らの、「通俗化してダメになった元映像派」という意味での大先輩にあたります。しかしこの映画などを見ていると、「さらば、わが愛」みたいなどうしようもない通俗的な駄作を撮ってダメになった陳凱歌、ダメさ加減においては陳凱歌ほどではないにせよ、ダメになったことには変わらない張芸謀や田壮壮に比べて、やはりルルーシュは才能が長続きした監督だったことがわかります。もっとも、この後に「愛と哀しみのボレロ」とか云う、ダラダラ長いだけで隙間風がビュービュー吹きまくっているような大味の駄作を撮ったわけですから、まあ今となっては、みんな同じようなもんですが。
というような次第で、「愛と哀しみのボレロ」みたいなダメな映画のDVDだのBDだのを出したり廃盤にしたりまた出したりを繰り返すよりも、30年近く前にビデオが一回出たきりで、すでに忘れられた存在になっているこの映画のDVDを、早く出してもらいたいもんですね。これこそまさにIVCさんのVHS発掘隊の候補にふさわしいと思いますけど、いかがですか。
追記(2013.6.5)
上述の、陳凱歌、張芸謀、田壮壮の3人とも「1990年代以降はダメになった」と書いたのは、「才能が摩耗した」と云う以上に、「ダメにならざるをえなかった」と云う意味でもあります。わかる人にはわかるでしょうが、念のため。(24年目のこの日を迎えて)
僕が持っているのは1998年の発売のディスクですが、再発されたようですね。いくつか単調で時代性を帯びたリズムの作品もありますが、ベコーの代表的な曲はすべて網羅されているようです。聞くたびに痛感するのが、ベコーは
フランスの演歌歌手だったのではないかという思いです。お勧めは、et maintenant (そして今)、la solitude, cest en septmbreの3曲です。どれも微妙に違う曲調の作品ですが、
フランス語の毒々しさとデフォルメ性が前面に出てきて、これが
フランスの演歌でなくてなんだろうとという思いにいつもとらわれます。僕のしゃべる片言の
フランス語もどういうわけかベコーの歌い方に影響を受けているようです???