蓼食う虫も好き好きか。デザインの本質と、人間の思考について考えてしまう。 どこまでが個人的嗜好でどこからが本質なのか。 本質だけでデザインは完成するのか。ひとつずつトライ&エラーを繰り返すしかないのか。
女流文学の発表の場としての使命を任じた『青鞜』に、付録のようにして掲載された評論などを集めたもの。当時の女流論客のしのぎの火花を砂被りで眺めているような迫力がある。ただ、一連の議論として発表された文章であっても、『青鞜』以外で発表されたものは収録されていないので、不便もある。 議論の水準としては、成層圏の彼方に飛翔してしまったような今日の女性学とは比べるべくもないが、決して過去の遺物と軽んずるようなものではない。特に、平塚らいてうの所論の鋭さは際立つ。冒頭、『人形の家』のノラについての所感が次々と熱く繰り広げられる中で、らいてうの眼差しは至って冷ややか。こんなの当たり前じゃないの。いまさら浮き足立つなんて、ノラもずいぶんとウブなんじゃない?と言わんばかり。対照的に、公娼制度に関して青山菊栄の反論に応えた野枝の文章などは、もはや読むに耐えないほど見苦しく取り乱したものに成り終わってしまい、いかにもお粗末。 本書で採りあげられている様々なテーマの中には、家父長制や姦通罪についての法改正、堕胎罪運用の大幅な変化、或いは女性普通選挙の実現、公娼制度の廃止など、時代を経て既に議論の直接の基礎が失われた問題もある。しかし、それらについて本書で問われていたことの根本は、制度の変化によっては結局なにも解消されたわけではないこともまた見逃してはならないはずである。刑罰の対象とならないとは言っても、姦通や堕胎を例えば自分に許せるのかという問題の深みは、相変わらず混沌のままではないか。大正時代に熱く論ぜられたこれらは、結局われわれの問題として今尚立ちはだかっている。
「デザイン」という言葉には、カルチャーや業界の違いにより色々な意味を含むものだなと※ちなみに、私は広告業
平面のデザインや、WEBのデザイン、イベントでの導線等々においても、参考になる考え方がありました。 象徴的に思えたのが、82Pで記述されている「アフォーダンス」という考え方。 ⇒動物や人間が世界の中の対象物に対して反応できるさまざまな活動
装丁は、少し重々しいですが中身はそれほど難しくは書かれてません。 それが逆に不満点かも
|