ヘンリー・ジェイムズは死の直前にイギリスに帰化したが、基本的にはアメリカ人なので、
紅茶にたとえるのはちょっと違う。また、「眺めのいい部屋」の舞台は
フィレンツェです。
それはともかく、ジェイムズの難解な心理小説をわかりやすく映画化したという点で、失われたものもありますが、逆に原作の時代にはありえなかった大胆な性描写や性的表現(クリムトの絵)を配することで、ミリーの精神的な愛、天上的な存在感を対照的に際立たせています。
ミリーが聖堂や教会の高いところへ上がっていくシーンが2箇所ありますが、ここで彼女が鳩であることを暗示しています。ただ、原作では、ミリーは最終的に、白い無垢な鳩の翼を広げて、自分を裏切った人々を許す、という意味での鳩の翼なのですが、映画ではそれが表現できず、かわりにマートンのせりふに鳩の翼という言葉を入れて逃げたのが残念でした。
キャストはみなすばらしく、主役の3人はもちろん、シャーロット・ラン
プリングやマイケル・ガンボンといったベテランの存在感も見ものです。この当時、文芸映画のヒロインを次々と演じていたヘレナ・ボナム・カーターの人間のダークサイドに切り込むような演技もみごと。マートンのライナス・ローチ(「司祭」)、ミリーの
アリソン・エリオット(「この森で天使はバスを降りた」)も当時は売り出し中の俳優だったのですが、ヘレナが今も活躍中なのに対し、この2人と監督のイアン・ソフトリーはその後ぱっとしないようなのが残念です。
原作から失われた部分はあるものの、映画は全体として見れば、原作のエッセンスを生かしながら、今日的な視点も盛り込んだ佳作だといえます。
原作はアメリカ人ジェイムズのアメリカとヨーロッパに対する見方、つまり、無垢なアメリカ人(「鳩の翼」ではミリー)と狡猾なヨーロッパというテーマがあるのですが、映画はイギリス映画なので、むしろ、落ちぶれた中産階級の娘であるケイトのイギリス階級社会での苦悩が中心となっています。しかし、アメリカが大国になった現代では、アメリカが無垢であるというテーマはもはやあまり有効ではないでしょう。20世紀初頭のイギリス階級社会に翻弄されるケイトの方を主役にしたのは大いに納得できます。
なお、無垢なアメリカ女性が狡猾なヨーロッパに出会うというテーマは「ある貴婦人の肖像」にも顕著で、こちらも映画化されています。