《私の東京地図は、三十年の長きに亘って歩いてきた道の順に、心の紙に写されていったものだ。》
つまり十二で長崎から上京しての敗戦まで。職を転々としながら文筆をおぼえ、自殺未遂をはさんで二度の結婚、共産主義の思想にそまり、転向を余儀なくされるにいたる。
《この移りゆく風景の中を私が歩いている。まだ肉のつかぬ細い足で、東西も知らずに歩き出している。次第に勝手がわかってきたときは、もう辺りはおもしろくなくて、うつむきがちに惰性の足を引きずって通った。その惰性に堪えかねて、知らぬ道にも踏みいり、袋小路に迷いぬいたこともある。ある時は、人に連れ立たれて、歩調を揃えて気負って歩いた道。》
向島、浅草、上野、
日本橋、牛込神楽坂、目黒、駒込、大塚、
新宿、十条、戸塚、等々の街、戦前の風景が描かれる。だがそれらは追憶され、感傷されているのではない。始終貧困ときってもきれず、官憲の眼とむかいあってやがて屈折する、充たされることなく錯誤する生活=人生の軌跡として登場するのだ。それは文中にあるように端的に「道」であり、坂道、橋、曲がり角、路地、等々なのだ。空襲で東京は焼け野原となり、風景を一変させてしまった。だが軌跡としての、袋小路のようなその道々たちはごまかしようなく白々と消えず残っている。そしてそれは、敗戦後の新時代とやらにあってもかわらず、自前で歩いてゆかねばならないだろうものとしてある。
不転向者宮本百合子は、「百合子は今日を書き、稲子は過去へもどってゆく」と戦後のたがいの再出発を祝したという。稲子はただうなずいた。弱くではなく、文学者の戦争責任論に身を晒しつつ強く、だ。それが本作である。戦禍で失われた東京の街の風景を回顧しつつ、だがけして消えぬわが中途の道を刻まんとする意志がしずかに脈打っている。
《石炭がらを敷いたその路地へ出てゆきながら私は、自分だけ知っている私と、外からみられる私とを感じる。他から見られている自分の衣を脱ぎ捨てるように、私は今日も彼の待っている八ツ手の植込みのある家へ一途な足を運んでゆく。私は初めて感情の恣な昂ぶりを感じて、敏捷な体つきになっているが、その視線はまだ明るくはない。私は、子供の待っている我が家をよけて果物屋の角からではなく、銀行の角から路地を入ってゆく。この角は、二、三日前の夕方、ひそかに、一人の女の感情が突っ走ったところ。》
そして、彼、主義者との二度目の結婚となる。
とはいえ、「東京の街の中で私の縄張りと、ひそかにひとりぎめしている」という戦前上野山下での少女時代の「道草」が、私にはとりわけ愛おしい。「下町」「池之端今昔」の二編だけでも読んでほしい。一葉の『たけくらべ』の美登利の変貌を初潮にもとめる定説を、酷薄にも、水揚げによると指摘するクールな眼差しがここに、たしかにある。