昔、その形相は今正に我が子を産まんとする女性の顔が
般若の面であると聞いたことがありました。
産みの苦しみ、丁度今地球という大生命が生まれ変わろうとしている姿。全てのものが毒されてしまい混沌とした現代(いま)。仏教ではその様なときにこそ咲くのが白い蓮の花と云う。
釈迦の時代やキリストの時代、従った人は一握りだけだった。釈迦滅後にその教えは各地に広まった。しかし土地の習慣や言葉にミックスされたり、変化しながら終(つい)には形骸化してしまったしキリスト亡き後、ペテロはキリストの妻マグダラのマリアを追放し、バチカンの礎を作った。
例えば罪を犯した者も「私はやっていません」と言うでしょうし、勿論犯していない人も「私はやっていません」と言うでしょう。そうすると、真犯人を付き止めるには正しい判断力が必要に成る訳ですが、民主主義=多数決が最高と想い赤信号でも大勢ならと、そして人生の終わりが近づくと、死んだらおしまいで全てが清算されるのだ。と決め込む人たち。
私たちにも純粋なときがあり、素直な気持ちで喜・怒・哀・楽・を感じた頃があったと思います。一切の執着から離れ心静かに五井野正博士のこの書を読んだならば、”見出し”に書かれた多くの事が、かつて何人(なんびと)も成し得無かった、奇跡とも言える事件ばかりあって、その全てが、御自身の為ではないという事。又全ての博士の行為は検証可能である。ということは行動する前に後々のこと迄考えておられるのだと想います。
人は、例えば死ぬほどの苦しみから救ってくれる様な人が居たとすれば、その人に対し神の如く感じたりすることもあるでしょう。お金に困った人に対して、上げたり貸したりすることに依って助かる人も確かにいるでしょう。しかし依然として貨幣制度のある限りその為に苦しんだり、命を落とす人は無くならない訳です。
17世紀にだ天使ルシファーに感応したイギリス人ニュートンによって人類を呪縛し続けている力学と金に依る束縛から一人でも多くのものたちを解放する為の壮大なる道を示されている。と私は確信致します。
宗教はその文字から宀(宇宙)を示(しめし)て教えると成っていますが、例えば太陽系から銀河へ移動するには必ず
土星のスターゲートからでないと不可能だということのようですが、この一件だけに限っても世界中の宗教家でYes or No を返答できる方がいるでしょうか?
現在迄に唯一
ノーベル賞を二度に亘って受賞した(化学賞・平和賞)米国の物理化学者、ライナス・カール・ポーリング博士は、生前奥様に語られた話として、「私の人生に於ける唯一の汚点は日本の中から法華経を説く救世主が現れるとの想いから、人を間違った為カルト教団のトップの人間と握手をして手を汚してしまったこと」と後悔していた。とのことです。あのアインシュタインが、この日本の地に最初に降り立ったとき「この世に、世界で最も古い家柄であり高貴な国日本を作って下さった神に感謝する」という様なことを述べたと云うことですし、なんといってもあのオランダの巨匠画家フィンセント・ファン・ホッホ(ビンセント・ヴァン・ゴッホ)は後の世に現れる日本のその人に願いを託し絵画に思いを込めた作品があるという。(既に博士は全て
解読されました)
核を初めとして、私たち人類はあまりにもこの大生命地球を痛め付けてしまいました。にも係わらず癒す方法すら分らずにいる状態です。五井野博士が解決策を示しているのをいつ迄無視し続けるのでしょう。
人はその心をまでも縛られることはないのですから、基本的に自由でしょう、人それぞれに自由な状態から理解しただけの世界に行き尽くんだと想います。
”死んだらおしまい”と想う人には次の世は無いでしょうし、”死んだ後も何かある”と考える人には何かがあるのでしょう。屹度自分自身が決めるのでしょうね。
しかし、考えるに付け、自分自身の人生を生きる事をせず、人類のことを只管(ひたすら)思い導くお方に対して”笛吹けど踊らず”では、ただただ悲しみの涙だけをお返しするということか?
人はその刃を弱者に向け、法は強者を守る。狂っているとしか言い様のないこの国日本!!
この星を蘇生する為に大荒れの海原に漕ぎ出す船頭が沢山必要です、船頭多くして船が沈むというなら船を増やしたり、知恵を出し合って彼岸を目指すのです。
皆さんもうお分りでしょう。思わず口に入れたくなる程上手く描かれた餅があったとしても空腹は満たされないということを。
どんなに立派な説教を聞いたとしても、そこに目的が叶う道が無ければ歩めないのですから。
『今様押絵鏡』(今の世に教える手本)となる人達がこのレビューを観(よ)んで戴いた方の中から出現することを願い…。
思いを文字に変えていると、ついつい長文に成ってしまいましたが、最後に、”勇気を持って”という言葉で閉じたいと思います。
突然、平和な学校を襲った前代未聞の凶悪事件。何の罪もない子を理不尽に失った遺族に、追い打ちをかけるメディアスクラムや、司法解剖時の配慮の足りない対応。いまだ起こった事件が事実だと思えないほどの心理状態にある遺族に、つぎつぎに求められる各種事情聴取への対応や書類への署名。遺族は何よりも事実を知りたいと思っているのに、その肝心な点での情報提供が欠落する。……こうした境遇に置かれた犯罪被害者遺族に、周囲はどう寄り添い、どうやったら力になることができるのか。
体験談だけだととかく主観的になりがちなところ、本書は、カウンセリング関係の専門研究者が総括や反省を加筆することで、今後へ向けての参考となりうる文献として
仕上げられている。
思えば、犯罪被害者等基本法が立法され、被害者保護法制が急速に進んだのも、この事件が大きなきっかけとなってのことだった。
「人生破れかぶれ、自殺もできないから、死刑になりたい。人をたくさん殺せば死刑にしてもらえるだろう。どうせやるなら、五人だろうと十人だろうと、変わりはない」と開き直った犯人に、死刑の犯罪抑止力(威嚇効果)は皮肉なことにゼロだった。が、「だから死刑にしないでおこう」では、遺族として納得できるはずもなく、遺族は当然のように死刑を求めた。が、犯人が死刑になったところで、遺族にとっては償いの十分の一にも思えず、回復への道は遠い遠い旅路だ。何ともやりきれない話である。
同じ動機の「死刑になりたいから見境なく人を殺す」という倒錯した犯罪は、奇しくもこの事件のちょうど七年後の2008年6月8日に、秋葉原通り魔事件として、再現されてしまった。
刑事裁判に付随して被害者や被害者遺族が民事の損害賠償の請求も出して裁いてもらえる「損害賠償命令」の制度がようやく動き出した現在、同じ事件が起こって遺族が民事の請求も出したら、どう裁かれるのだろうか? 「刑事:死刑」+「民事:天文学的数値の損害賠償命令」という判決は、出すことができるのだろうか? 「被告人を死刑囚として拘置はするが、天文学的損害賠償金を払い切るまでは、死刑執行はしない。払い切ったあかつきに、初めて本人の望む通りの死刑を執行してやる」という判決を出すことは、「死刑執行は確定後六か月以内」との刑事訴訟法の規定に抵触するから、たぶん出すことができないのだろう。
もしもそういう「刑罰+民事賠償」の制度があれば、「死刑になりたい」動機による歯止めのない殺人という倒錯犯罪に、少しは歯止めがかかるかもしれないが、これはこれで、一から考え直さなければならないほどの、むずかしい制度設計の問題である。