日活で「帝銀事件」「日本列島」といった骨太の社会派映画を作り、大作「黒部の太陽」を様々な困難(他の映画会社からのイヤガラセ)に打ち克って完成させた熊井啓監督が日活退職後にATGと組んで撮り上げた力作。
これまでのキャリアの延長とも言えるこれまた重い社会派作品。
長崎県佐世保市を舞台に原爆被爆者部落、朝鮮人部落・・・これら被差別部落間にある大きな壁、差別される者が差別を行うという構図の重さ。差別は人間の原罪であることを思い知らされる。
本作の原作および脚色を担当した井上光晴には、その他にも「TOMMOROW」(黒木和雄監督)といった長崎原爆を題材とした傑作があるが、怒の「地の群れ」と静の「TOMMOROW」はコインの裏表的な作品だと思う。新藤兼人の傑作「原爆の子」と並べるにふさわしい原爆映画の一つだと思う。
観る方によっては、随所に挿入される鼠に食われる鶏、そして焼殺されるその鼠のシーンがショックだと思うが、熊井啓監督は後年「海と毒薬」で、捕虜の生体解剖場面で保健所から引き取ってきた
犬を人に見立てて撮影。
犬を開腹して鼓動する心臓を鷲づかみするかなりショッキングなシーンがあるが、熊井監督は撮りたい画のためなら「動物の生死は問わず」という方だったのではないだろうか。賛否両論は勿論あってしかるべきだが。
とりあえず、多くの人に観てもらい喧々諤々してほしい。
未だDVD化もされないし、リバイバルもされないため、なかなか観ることはできないが、現状を打破するような気骨のあるメーカーが現れるのを待つしかないのか。
原監督は井上光晴の「フィクションとノンフィクション」についての講演を聴いて、彼を映画の対象として決めたそうです。「虚構と事実」の関係はドキュメンタリー映画監督としても関心のあるテーマだったのでしょう。それがこのような展開になるとは不思議な符合です。
構成上では映画の半ばで、初恋の人が娼婦になったというエピソードが虚構だったことが知らされ、旅順で生まれたことなども事実ではないことが明らかになります。原監督のことですから、直接本人に矛盾を突きつけるのではないかと予感したのですが、それは収められていません。その理由は、亡くなってから氏の半生が虚構だということが分かってきたからだそうです。
井上光晴が「自筆年譜」を創作したのが、松本健一が
作家の自伝 (77) (シリーズ・人間図書館)で引用する谷川雁の言葉のように、「本当の履歴を書くということに彼は耐えられなかった」からであり、「自分の存在の一頁をね、あるがままに提出したくないという気持」があったからなのか。
だとすると、この映画はその「わざと白いままに残された」最後の一頁に辿り着いたのだろうか、母との関係なのか、祖母の秘密がそれなのかという疑問が浮いたままの状態です。
「ああ、あの場面の裏では、そういうことが起きていたんだ」とか、「そっかー。あの人とこの人は、そういうふうにつながっていたんだ」とか思ったなあ。虫食い状態で、あちこち欠けていたパズルのピースが、ぴたっ、ぴたっとハマっていく伏線が、バツグンに面白かった映画。
それと、もうひとつ。登場人物同士が、ビリヤードの玉突きのようにつながっていく妙味がありましたね。さっきは脇役だった人物が、しばらくすると、今度はスポットライトが当たって主役になっていて、そこで脇役だった人物が、またしばらくするとスポットライトが当たって主役になっている・・・・・・。そこからあぶり出され、浮かび上がってくる、それぞれの人物の持ち味とからまり具合が、とても面白かった。
ラストは、もっとひねってあってもよかったのではないか。というか、まだまだ話が続いていきそうな、いや、続いていけばいいなあと期待したんだけれど。
話の仕掛け、伏線の張り方など、とても気が利いていて、これはおっもしろいなあと拍手したくなった一本。続編、出てないですよね。見てみたいんだけどなあ。